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【アラベスク】  第2章 真紅の若葉



第2節 丘の上の貴公子 [5]




 だが詩織は、そんな美鶴の心内を知ってか知らずか、平然とした態度で霞流へ声をかける。
 まぁ美鶴としても、二人とは少し離れた席に座り、黙ってこちらを見ている彼の視線が、気にならないワケではない。ぎこちないテーブルマナーを凝視されては、少々窮屈でもある。
「霞流さんはもう食べちゃったの?」
「えぇ、祖父と済ませました」
「そう。お祖父さんは? お部屋?」
「はい」
「あなたは? お仕事?」
 その言葉に、霞流慎二は少し思案する。
「いえ、仕事……… というワケでもありませんね」
「あら、まだ学生さん?」
「いえ、そうでもありませんが……」
「ちょっと、まだ食べ終わってないじゃん。食事の時くらい静かにしてよね」
 美鶴の言葉に詩織はブーと頬を膨らませる。
 霞流はホッと息をつき、視線を美鶴へ移した。
「今日はこの後どうされます?」
「どうって……」
 突然話を振られて、美鶴は思わず言葉に詰まる。
 どうしよう?
「学校へは連絡されていますか?」
「いえ」
「では、された方がよろしいでしょうね。火事の件は警察などから伝わっているかもしれませんし、ひょっとしたら、昨夜からあなたと連絡を取りたがっているかもしれません」
 確かに
「あと、学校へ行くには制服なども揃えなおさないといけませんよね?」
 うー
「とりあえず、教科書と制服はこちらで揃えましょう。それだけあれば、学校へも行けるでしょう」
 え?
「それに、着替えも必要ですね。他に身の回りの生活用品。申し訳ありませんが、我が家は男二人なものですから、大した服もお貸しすることができません。その服は私の母が忘れていった物ですが、そんなにたくさんあるワケではありません。やはりちゃんとご用意した方が良いと思うのですが。好みなどがあればおっしゃってください」
 なに?
「それとも、ご自身で選ばれますか? でしたらこれから買いに出かけましょう。よろしければ私もお供しますよ」
「ちょっ!」
 ついに美鶴は声をあげた。テーブルに手をついた拍子にフォークが床に落ちてしまう。
 キンッ と響く控えめな金属音が、美鶴の慌てぶりを笑っているかのようだ。
「ちょっと待ってください。用意って……」
 美鶴の言葉にも霞流慎二は動揺せず、テーブルの上で両手を組んで首を傾げる。
「何か?」
「何かって………」
 小首を傾げられ、さらに頭が混乱する。
「あのっ」
 外から響く小鳥の鳴き声が、美鶴の動揺を笑っているかのよう。まるで、慌てる自分がおかしくて、霞流の発言はごく当たり前。そう笑っているかのようだ。
「ど、どうして霞流さんが用意するんですか? ……その、制服とか教科書とか」
「いけませんか?」
「いけないって…… そういうワケではなくって」
 美鶴は必死に額を押さえる。
「それは私が用意するものであって、霞流さんが用意しなければならないものではないので、だから…… 霞流さんが用意するってのは、その、なんて言うか……」
 必死に言葉を探す美鶴の姿に、霞流は微笑む。
「こんな言い方は失礼かもしれませんが、そちらでご用意できますか?」
 ぐっ
「遠慮することはありません。こちらでご用意いたしましょう」
 美鶴はすばやく顔を上げ、生唾を飲み込んだ。
 頼りない外灯でも昇り始めた朝日でもない、五月の柔らかな木漏れ陽の中で、霞流という人間はひどく暖かく見える。
 騙されるなっ!
 必死に言い聞かせる。
 日差しが暖かいから、相手もそう見えるんだっ!
 そうだっ! きっと、貧しい者に施しを与えるような感覚なのだっ!
 柔らかな表情の下で薄笑う霞流を想像してみる。そうすると、少しだけ怒りが沸いた。
 ―――――っ だがっ!
 だが、美鶴にも母の詩織にも、現状を打破する力は…………ない。
 それでもやはり納得のできない思いで美鶴は口を開き、できるだけ声を落とした。
「どうしてですか? どうして用意してくださるんですか?」
 乗り出すように問いかける美鶴の肩を、後ろからポンッと叩く。
「いいじゃん。用意してくれるって言うんだからさぁ。用意してもらいなよ。アンタさぁ、人の好意を無駄にするもんじゃないよ」
 コイツっ! 貧乏人だってコケにされてるのがわかってんのかよっ!
「なぁに〜? 怖い顔しちゃってっ」
 ―――――っ!
「アンタは図々し過ぎるのよっ!」
「ちょっと、母親に向かってアンタとはなによっ!」
「なによっ!」
 キッと睨み合う二人に霞流慎二は慌てて立ち上がる。
「まぁまぁ、お二人とも落ち着いてください」
 そう言って傍まで歩み寄り、二人の椅子の背凭れに手を乗せ、顔を交互に眺めた。そうして、美鶴の上で視線を止める。
「美鶴さん」
 呼ばれて美鶴は、ドキリと身を跳ねさせる。
 どこからか風が入ってきているのだろうか? 霞流慎二の髪が微かに揺れて、ほのかな香りが上から降ってくる。長く伸びた前髪の後ろで、二重の下の細く切れた双眸がこちらを見下ろしている。
「不可思議に思うのはわかりますが、どうぞ遠慮なさらないでください。知らない間柄でもないのですから」
「え……… でもっ」
「ほらほらっ」
 母のお気楽な声を睨み返す。そうして改めて霞流慎二を見上げた。
「じゃあ、とりあえずもうちょっと待ってください」
「え?」
「これから、アパートに戻ってみます。何か使えそうなものが残ってるかもしれないから」
「そんなもんあるかぁ?」
 うんざりと両手を後頭部で組む詩織は無視。
「たぶん、制服とか教科書とか、ほとんどダメだとは思うけど…… 見に行ってみる価値はあるかもしれない」
「……… そうですね」
 霞流慎二はゆっくりと頷くと背凭れから手を放す。同時に美鶴は椅子を押した。
「じゃあ、今から行ってきます」
「アタシは行かないよ」
「来なくていい」
 詩織には見向きもせずに、美鶴はそのまま小走りにダイニングを出た。
 その後ろ姿に、霞流は少しだけ目を細めた。そうして優しく、笑った。







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